日本におけるドイツ2005/2006
 
  ザクセンと日本の交流の歴史
18世紀 ライプチヒの外科医カスパー・シャンベルガーが長崎の出島で治療にあたる。
1873〜75年 フライベルグの鉱山技師クルト・ネットーが秋田県小坂町で新しい銅精錬技術を伝える。その後1878〜85年には東京の大学で鉱山学、冶金精錬学の教鞭をとり、明治天皇から勲章を賜る。また1873〜1935年にかけ45人の日本人学生がフライベルグに留学。1997年には、小坂町の公式訪問団がフライベルグを訪れネットーの生誕150年を祝った。
1875年 ナウマン象研究などで知られるエドムント・ナウマン(マイセン出身)が来日し、東京大学地質学学教室初代教授として10年間日本に滞在した。森鴎外との論争も有名。
1876年 東京大学医学部の教官となったオーバーライジッツ郡ベルテルドルフ出身のオスカー・コルシェルトは、日本酒醸造法を研究し清酒用防腐剤サリチル酸の普及に努めた。
この頃 ユリウス・ストックハーツ著の化学教本が、日本で19回版を重ねる。
1884〜88年 森鴎外が、ライプチヒ、ドレスデンを中心に医学を学ぶ。ザクセンでの生活を綴った小説「文づかい」が著された。
1890〜92年 本多静六がターラントの高等森林学校に留学。帰国後「日本における公園の父」 として日比谷公園をはじめ多くの造園に携わる。その後1990年代から本多博士の出身地埼玉県菖蒲町とターラント町との交流が続いている。
1899〜1901年 池田菊苗(「味の素」の発明で知られる化学者)、ライプチヒでザクセン最初のノーベル化学賞受賞者オストヴァルト博士の下で学ぶ。
1901〜1902年 滝廉太郎、ライプチヒ音楽院に日本人としてはじめて留学。2003年6月、滝廉太郎没後100年の記念碑がライプチヒ音楽演劇大学の近くに建てられた。また廉太郎の生地大分県竹田市にある「滝廉太郎記念館」の庭にはライプチヒゆかりの音楽家メンデルスゾーンの没後150年を記念したバラの木「メンデルスゾーン」が植えられている。
この頃 フライベルグ鉱山学校のレーデブールは八幡製作所の発展に寄与、当時日本での標準教本「製鉄所学」を著した。
20世紀初頭 鍋島直忠が、ターラント高等森林学校に留学。この留学と、陶磁器の関係から1979年佐賀県有田町とマイセン市が姉妹都市となる。また、1982年鍋島家から貴重な日本美術コレクションがドレスデン市に寄贈され、翌1983年から一般公開されている。
この頃 「日本の弱電流工学の父」ハインリヒ・バークハウゼンの、全4巻の専門書「電子管」が邦訳され広く用いられた。

  1990年からザクセンと日本との交流は積極的に発展してきました。経済、政治、教育、研究、文化、スポーツ等、様々な分野でのコンタクトも、あらゆる年齢の市民レベルでの個人的な出会いも多く、深くなりつつあります。ザクセンの「日本におけるドイツ2005/2006」のプログラムは日本とザクセンの歴史的な関係、そして現在の関係の様々なテーマを取り上げて、情報を伝えながら楽しめ、総合理解を深めることができる貢献をしようとしています。