フライベルク工科大学と秋田大学の関係−日本の鉱業近代化に貢献したクルト・ネットーについて
クルト・ネットーの 功績を讃えて、2006年5月3日、その誕生の町フライベルクで、記念のシンポジウムが開催され、また、ウタ・レンシュ市長臨席の許にその生家に銘板が掲げられた。
 それまで、フライベルクでクルト・ネットーを知る者は殆どいなかった。一方、日本では、彼は、鉱業の専門家の間で広く知られていた。彼は、1872年明治天皇によって招聘された最初のドイツ人の一人であり、秋田県製錬の近代化に貢献した。彼は、給費学生として1864年鉱山学を学び始め、5年後国家試験に合格した。この間、鉱山法や会計も学んだ。
特に、ホイヒラー教授の許で製図を修学した。彼は、有能な製図者であり、画家でもあった。それらすべてが、彼の日本での仕事に非常に役立った。彼は、秋田県小坂町の鉱山で直ぐに管理者になった。当初日本語が話せなかったので自分の考えを話すのに頻繁にクレヨンを使った。本来別人が日本に派遣される予定であったが同人は気が進まず、代りに勇気のあるオットーが来た。彼は、1873年12月のクリスマスをもみの木で飾り、エルツ地方の伝統に従って過した。この様子の模型は、小坂町の博物館に展示されている。クルト・ネットーは日本に滞在した時代を悔いたことはなかった。彼の日本での活躍により、フライベルク鉱山工科大学の素晴らしさが知れ渡った。彼は、そのスケッチと水彩画により、明治時代の美しい日本の絵を後代に残した。ドイツに帰国後クルップ社の許でアルミに従事し、それから、金属会社(メタルゲゼルシャフト)に入社した。同社は後にルルギLurgi社となった。ルルギの名は、クルト・ネットーに遡る。彼は、電信を打つ際、メタルゲゼルシャフトの代りに簡略化された「ルルギ」を使ったのである。
 ドレスデン工科大学の新たな卒業生が日本に向かい、逆に日本から学生がフライベルクに渡った。その一人に小花冬吉がいた。小花は、東京で学び、クルト・ネットーと面識があったので、さらに研究を続ける為フライベルクにやって来た。帰国後、日本で県、省、また八幡製鉄所等様々な活動を経て、1919年から1914年の間秋田鉱山専門学校ー後の秋田大学鉱山学部ーの初代学長となった。90年代の初め、クルト・ネットーの足跡を求めて日本から代表団がザクセンにやって来た。また、同人生誕150年を記念して、小坂町でシンポジウムが開催された。小坂町では、コスト上の理由から鉱山の採掘が行われなくなった。このため代替産業が真剣に求められ、同市から定期的に人がフライベルク市を訪問するようになった。けだし、フライベルク市は同様な問題に直面し、経済の構造改革を実施、成果を挙げていたからである。こうして、日本で鉱業や製錬を学ぶことが出来る秋田大学は、フライベルク工科大学とパートナーの関係を希望するに至った。相互による特別講義が実施され、将来もまた、ネットーの時代と同様、科学者や学生の交換が活発に行われるであろう。今年も、環境と資源管理の専門家であるJan.C.ボンゲルツ教授が客員教授として秋田に行き、二、三週間滞在する。
クルト・ネットーと小花冬吉が夢見た、両大学の絶えざる協力関係の実が今結ぼうとしている。
   
カリン・ハイデンライヒ記